2009年03月22日

資料13:(過去ログの再録):戦略・戦争の早期終結を実現したイタリヤの手法との対比


資料13:(過去ログの再録)'06年8/10〜21日投稿分

   「馬鹿馬鹿しい太平洋戦争を現実化した諸要因」の一項目:戦略の観点から
      戦争の早期終結を実現したイタリヤの手法との対比(の節)

@情報の出所
   太平洋戦争中、日独伊3国同盟から早期に離脱し、自国民の大量無駄死を回避したイタリヤの事情については、日本には正確な情報が少なかったのではないかと思われる。戦後の日本と西ドイツにおいては、ともに、戦時中は最後まで勇敢に戦い、戦後はともに奇跡と言われる経済的復興を成し遂げ、経済的一流国となった点で、イタリヤを見下す感覚で、日本人とドイツ人との間では、「今度戦争をするときは、イタ公抜きでやろうな」と言い合う共通理解があったとよく言われていたし、私もそのような感覚を近年まで持ち続けていた。しかし、私が、この認識を改めたのは、これから紹介する平川祐弘氏の著書「中国エリート学生の日本観」文芸春秋社を読んだことによる。平川氏は、東京大学の、比較文学・比較文化の名誉教授であり、同氏の随筆15本を集めたこの本の中に、「ムッソリーニ失脚――イタリヤのいちばん長い日」と題する一編が収められている。もちろんこれは、「日本のいちばん長い日」と題する映画が、日本の太平洋戦争終結の過程を描いたことに模して、この表題をつけたのであろう。
   平川氏はこの随筆を、イタリヤの外交官・チアーノの日記を原語出版物で読んで書かれたようである。この日記はニュールンベルグ裁判の証拠資料として採用されたともいわれる。また、平川氏は、イタリヤ人と繰り返し交わすご自身の意見として、「ドイツと手を組んだおかげで日本もイタリヤも未だ同じ悪党に見られて損をしていますね」と言う言葉も紹介しておられる。確かに、ナチスドイツには、ユダヤ人虐殺の「人道に対する罪」があり、そうとすれば、「次はイタ公抜き」との発想は、歴史を正確に学び直して封印した方が良さそうなのである。なお、日記の主チアーノは、ムッソリーニの娘婿、ムッソリーニ内閣で外相をつとめた経歴を持つ。ファシスト党員でもあるが、同氏については、後記で日記に現れた同氏の考えを紹介する際にさらにその補足を行うことにする。

Aイタリヤのいちばん長い日
  イタリヤのいちばん長い日の中心舞台は、1943年(昭和18年)7月24日に開かれたイタリヤファシスト党の大評議会である。このときすでにヨーロッパ戦線では、ドイツイタリヤ側の敗色の兆しは濃厚となりつつあった。同年1月すでにドイツ軍はスターリングラードでソ連軍に包囲され降伏する。5月には北アフリカでドイツ・イタリヤ軍は海上補給路を絶たれて孤立し降伏する。そして7月10日には連合軍はシチリア島に上陸する。7月19日には米英空軍は第1回のローマ空襲を行っている。そして同月の24日にこの日を迎えるのである。
   ところで、このファシスト党大評議会とは、ムッソリーニが、1922年にナポリからローマへ進軍し、イタリヤ国王が、やむなくムッソリーニに組閣を命じたことに始まり、ムッソリーニがその独裁体制の下に非立憲的な制度として作った「最高決定機関」で、以来立憲制度と併存する形式をとっていた。
   問題の7月24日の大評議会は、28人の議員の相当数が開催を要求し、その中の大御所グランディから、会議に上程される動議の草案は、2日前にムッソリーニに渡されていた。
   動議の内容は、「すべての国家制度、すなわち国王、大評議会、政府、上院、協調組合は、本来の機能と責任を回復し、国王は大権に基づいて3軍の最高指揮権を掌握し、あらゆる決定の発議権を確保するものとする」という、ムッソリーニの独裁体制に終止符を打つことを意図したものであった。この動議が示すように、ファシズム大評議会は、ムッソリーニの戦争指導能力に疑念を呈したのである。
   当日の会議は、同日午後5時過ぎに始まり、ムッソリーニの状況説明、弁明の一方的な長広舌が2時間続き、次いで質疑、討論が休憩を挟んで行われ、論戦は延々と深更にまで及んだ。議員の発言の中には、「総統、あなたは民衆達は今もなおあなたに献身的であると信じ込んでおられますが、あなたがイタリヤをナチス・ドイツと結びつけた日から、もはやそうでなくなっているのです。…… この戦争で死者の数は既に10万に達しました。10万の母親が叫んでいます。『ムッソリーニが私の息子を殺した』と」というものもあった。ムッソリーニの発言にも、身内の会議という安心感もあったろうが、「現在、私はイタリヤで誰よりも嫌われている。……」という言葉や、「自分は戦局を枢軸側に好転させる妙案を持っているが当分は公表できない」という言葉などがあった。議員でもあったチアーノは、反ドイツの演説を行った。
    討論は午前2時まで続き、最後には、ムッソリーニが動議の採決を求めたが、賛成が19票(含むグランディ・チアーノ票)、反対は7票、棄権2票であった。
    翌日ムッソリーニは、午前9時に執務室で予定通り、日本大使日高信六郎に会い、イタリヤとドイツはソ連との間に平和条約を結ぶべきだ、と力説し、当時ソ連と中立を維持していた日本に対し「東京からモスクワに圧力をかけて交渉を開始させるように」と要請した。これが、たぶん「戦局を枢軸側に好転させる妙案」だったろう。そして、日高大使は、この要請を承知し、本国政府へ伝えることを約束した。日高大使はこの会談を極めて興味深いものと思ったぐらいだから、その日の早朝に大評議会で何が起こっていたのかを想像することもなかったのだろうと、平川氏は記している。
    その同日夕刻に、ムッソリーニは国王に大評議会の票決の報告に行った。ムッソリーニはこのとき、国王がそれでも自分を支持してくれるだろうと思っていたらしいのだが、国王は、この事態に向いているのはバドリオ元帥だと思います、と言われたとされている。
    国王はムッソリーニを玄関に見送り、ムッソリーニは自分の車と運転手を捜したが見あたらない。そこに憲兵隊長が近づいて、赤十字の着いた救急車を指さし、「国王の命によりあなたの安全を確保します。あなたの車だと判ると民衆にねらわれるおそれがありますから」と言った。こうして、ムッソリーニは、自分でもそれとは気がつかぬうちに逮捕されたのである。
   この後には細かい曲折はあるが、9月8日には、イタリヤが休戦条約に署名し、国王とバドリオ政権が、ローマを脱出し南の連合軍占領地域へ逃れたことが放送された。細かい曲折としては、ムッソリーニが幽閉場所からグライダーと軽飛行機を使いドイツ側に救出された(9月12日)というニュースがあったが、これも大勢には響かず、ムッソリーニとチアーノの個人的人生に悲劇をもたらす程度にとどまった。
    チアーノ日記は、たぶん夫人が複製を作り、国外亡命で持ち出されたものと見られている。
   結論的に言えば、ムッソリーニの失脚は、連合国側との和平回復を願い、宮廷と軍部に密かに通じたファシスト党幹部の造反によるものであった。そして、このような動きを全く予想していなかったとすれば、駐伊日本大使や日本大使館については、情報収集等、外交機能が不全であったとの評価を免れることが出来ないのでは無かろうか。

Bムッソリーニ失脚に関する日本のマスコミ報道('06.8.16.記)
   (注)『』内は平川「前掲書」の引用。
  『7月27日の朝日新聞の朝刊には、「ムッソリーニ伊首相辞任、後任にバドリオ元帥、国王自ら3軍を指揮、あくまで抗戦(伊国王布告)、伊全土に戒厳令」などの見出しが中段以下に出ている。そして、28日朝刊の最下段には「ファシスト大評議会」として「ローマ26日発同盟」が …… ムッソリーニ氏は内外政治軍事情勢につき簡単に報告して後辞職の声明を行い、 …… 会議は15分間で終了した。』    
  『しかしこれだけ読んで当時の新聞報道を不正確と馬鹿にしてはならない。7月30日朝刊には「危機打開の政治攻勢、ム首相退陣の真相」が、チューリッヒから田口特派員によって打電されている。それは、近着のミラノの「コリエレ・デラ・セーラ紙」が伝えた24日の大評議会の真相をそのまま報じた詳報だった。 …… (詳報略)                                             そして解説として「同評議会がかかる動きを見せたことの裏面には軍部が祖国の重大時期に当たって自らの政治攻勢を行ったという注目すべき事実である。すなわち軍部は国王の完全な了解を得てムッソリーニ政権を覆滅するイニシアチブをとった。また、グランヂと軍部との間に暗黙の了解があったことも容易に想像されるところである」と記されている。何者かが事態の真相をイタリヤ国民に知らせた方がよい、と考え大評議会の投票結果までリークしたのだ。それをイタリヤの新聞は国民に伝えようとしたのだ。そしてその特電には「さらに深くよって来る(ムッソリーニ退陣の)原因」として「最近のイタリヤを中心としてみた欧州戦局の重大化」と「国内食料窮勢の逼迫が伊国民に及ぼした影響」の2つは見逃せない、としている。…… 』
   さて、以上により朝日新聞は、一応現地の新聞をそのまま転載し、マスコミとして最低限の役割は果たしたことにはなってはいる。しかし、厳しく見れば、読者(消費者・日本国民)には、結果としてはおざなりの報道で、昭和18年7月の時点で判りやすい報道とはなっておらず、判断材料の提供としてはあまり評価出来ないように私には思われる。当時の私にとっても、此は殆ど関心を引く事件ではなかった。イタリヤは、戦場・戦闘では影が薄かったから、イタリヤが戦闘継続でも、休戦で3国同盟からの脱落でも、大勢に影響は無いという受け取り方が、周囲にもあったようである。記憶が定かではないほど、イタリヤは影が薄かったと言えよう。しかし、今となってみると、研究調査を要する興味深い対象だったのである。
   イタリヤ人にとっては、このリークされた報道は、日本の終戦時の天皇の玉音放送ほど明快ではないにせよ、その前後の報道と相まって、それと同等に近い意味を持つ可能性をかなりのイタリヤ人は感じ取っていたのではないかと思われる。たとえば、ムッソリーニが首相の座を解任され、バドリオ元帥というエチオピア戦争の英雄が首相に任命されるや、ファシスト党の幹部はイタリヤ降伏を予感し次々と姿を消した、彼等はヒットラーに救出されたムッソリーニからも、反ファシスト勢力からも敵視されるようになったから、そうした予感が大切だったのであろう。
   以上の説明からすれば、現代の日本で国際交流を深めるためには、外電の単なる翻訳だけではなく、前後の情報、周辺関連情報にも目配りして補完補足する心掛けがなければ、他国との真の交流を深めることなど出来ないと言うことであろう。これは次項Cでも同様の関係にある事を留意したい。

C当時の伊国その他情報とチアーノの卓越した洞察力('06.8.21.記)
   日本の戦時中の報道は、大本営発表が中心であり、昭和18年のアッツ島・キスカ島(アリューシャン列島の島)での玉砕、ガダルカナル島での転進、との報道で、戦争は勝った勝ったばかりではない、守勢の部分もあると感じられる様にはなっていた。しかし、海戦の報道では、大本営発表は、日本の損害よりも敵の損害の方が、常に大きいとの報道があったように記憶している。昭和19年7月のサイパン島の玉砕とは言っても、遠い南の島の話で、中学1年の私には、朝礼で校長先生が「サイパンを思え、そうしてみんなしっかりやれ」と訓示されたものの、重大事態だとは全く思わなかった。むしろ、先生が歯が抜けていたのか、サイパンを「シャイパン」と発音したので、それを友達との間で笑い話にした記憶の方が鮮明に残っている。ただ、政府にとっては、これで既往基本計画上の絶対国防圏の一角が崩れたわけで、公式的には深刻に受け止めなければいけない事態ではあった。しかしながら、これは頭では判っていても、本気でそのように思っていたのは、前記の岸信介商工大臣だけだったのではないか。商工大臣は、今の経済産業大臣に当たるから、経済の中枢責任者であり、さすがに総力戦では補給が重要であるとの認識はあったようである。同氏の発言は、前記第1章 c) D ロ) で記述した。一方、肝腎の軍部では、補給への配慮が抜けていたことを後記の関連箇所ではさらに取り上げる予定にしている。かくて対応がおざなりになる要因は、此処にもあった。
   サイパン島の玉砕を大本営が発表したのが昭和19年7月18日であり、この日に日米開戦を決めた東条内閣は総辞職した。つまりこれはイタリヤのムッソリーニ総統の解任・クーデターに対応する事件と言っても良いのだろうが、私の記憶では日本一般の事態受けとめについては、子供のこととはいえ深刻さは感じられなかった。黒船来襲の恐怖の記憶など、大人にも実感は全く残っていなかったのでは無かろうか。
   一方のイタリヤの民衆レベルでの状況把握についていうと、戦争開始前のドイツの膨張主義や宣伝上手も有ってか、日独伊3国同盟への参加や欧州戦線への参加については、その時点では国民的支持が有ったようである。そして、チアーノの日記からこの点を伺うと、イタリヤ外交官のチアーノとしては、一般人とは異なり、当時のドイツ国の勢いの良さにもかかわらず、イタリヤにとっては第2次欧州大戦前も大戦中も、終始中立が上策と考えていたようなのである。
    そして平川「前掲書」によると、37歳の若さにもかかわらず、ムッソリーニ内閣の外務大臣になっていたチアーノは、年にも似ず非常な英知を持ってヨーロッパ情勢を見渡していた。たとえば、イタリヤはフランスの敗色濃厚と見て宣戦布告をし、そのことによって第2次世界大戦に参入するのだが、宣戦布告1ヶ月前の5月10日、チアーノはなお中立の利を説いてやまない。ところが妻(ムッソリーニの娘)のエッダまで「イタリヤ国民は戦争を欲している。中立をこれ以上続けることは不名誉だ」などと父ムッソリーニに訴えに来る。「あれだけ頭のいい女なのに、もう感情で動いて理性が働かない。惜しいことだ。早くフィレンツェの音楽祭へでも行ってもらいたい。その方が本人のためにもなる」と日記に書く。そして、この外相は6月17日には、自分自身で空軍機を操縦し、コルシカ島のフランス軍飛行場を爆撃し・機銃掃射も行い、「フランス側の反撃も活発で正確だった」と日記には記すのだが、彼が基地に帰投したときには、フランスでは内閣が瓦解してペタン元帥が登場し、フランスがドイツに降伏したことを知らされることになる。
   そして、「チアーノ日記」の一特色は、ドイツ批判が年を追うにしたがって濃厚になっていく。そして、ヒットラーおよびドイツ軍のイタリヤ蔑視が折に触れ現れるので、ムッソリーニから一般民衆に至るまでが、全体的にナチスドイツに対する不快感を持つようになったようなのである。この辺は、平川「前掲書」には、日記に書かれたエピソード入りで、痛快とも言える筆致で書かれているから、原本を読まれることをおすすめしたい。
   さらに、イタリヤでは、日本参戦後について、(以下、平川「前掲書」を引用)
  『1941年(昭和16年)12月3日。日本大使がムッソリーニ総統に面会を求め、日米交渉の進捗状況について長い声明文を読み上げ …… その結論は、交渉は行き詰まった、というのである。……  
   そしてその次にチアーノのコメントが続く。
   いったいこの新事態は何を意味するのか。アメリカ国民を直接この世界大戦に引き込むことの出来なかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に成功したのだ。
  (これにつき平川氏は書く)この慧眼なイタリア外相は、日本軍の真珠湾攻撃に先立つ4日、この種の攻撃はルーズベルトの外交的成功となることを見通していたのである。チアーノのこんな醒めた見方に接すると、日本の軍部も政府も、ものの見事にルーズベルトに一杯喰わされた、という感を禁じ得ない。… 』
    上記伊外相の状況判断は、ハルノートへの対応に苦慮していた日本のそれと、その視野の広さ・狭さがあまりに違いすぎるのである。ルーズベルト大統領は、バトルオブブリテンの際、英国から参戦・援助を頼まれ、大統領としてはこれに即応したかったのだが、米国民には他国の戦争で自国民が血を流す事への抵抗感が強く、次の大統領選挙を考えると、参戦を見送らざるを得ない事情にあった。それで、対日交渉では、常識外れとされる条件が記されたハルノートが作られたとも言われているのである。
   チアーノは、慧眼でもあるし、また、外交官ならばそのくらいは常識なのかもしれないが、米国内の状況まで、目が行き届いている視野の広さは、日本としては、これからは学ばなければならない重要事項と思われる。
   一方、チアーノにも、太平洋戦争の緒戦の日本の勝利については意外だったようである。(以下、平川「前掲書」を引用)
  『だが、ハワイ空襲といい、シンガポール占領といい、日本軍の健闘は西洋人の想像を越えるものがあった。ムッソリーニは1942年2月9日「この戦争はドイツと日本の戦争で、俺達の戦争とはなっていない」とイタリアの影の薄いことを嘆いた。当時の独伊両国内には日本軍の勝利に対する嫉妬すらうかがえる。ドイツ外務省の広報担当官が「日本が勝つのは同盟国として結構だが、所詮彼等は黄色人種だし」などという(3月10日)。するとドイツ人に対して含むところのあるムッソリーニがにわかに日本贔屓となる(3月11日)。するとチアーノが今度は書く(1942年3月15日)「誰も自分を親独派とは非難できまい。だがそれでも黄色人種よりは白色人種の方が好きだ。それになんといっても日本は遠いがドイツは近い …… 」』
   以上で、当時のイタリヤ人の感じ方、考え方の一端を知ることが出来よう。遠い日本で想像するものとは、だいぶん違うはずである。
    さらに付け加えると、外交官の経歴を持つこともあり、グランディとチアーノは、親独派というよりは 親英派とされている。また、日本とイタリヤの違いで大きいところは、伊国民は禁令を犯して連合国の放送を聞いていた(昔も今もイタリヤの方が日本より外国語放送の理解者は多い)。それで、ムッソリーニの辞任の頃には、連合国との「単独講和」を望む声が起こり、もはや戦力も尽きたのだから、イタリヤの軍事上の義務を解除してもらうようヒットラーに要請すべきだと言うようにすらなっていたのである。
   以上の説明から類推していただけると思うが、平川氏はムッソリーニの失脚と日本の終戦御聖断との対比を中心に話を展開させている。その細目はこのブログでは省略させていただいた。そして、このブログでは、ムッソリーニの失脚と東条総理の辞任との対比に焦点を当てて記述を行ったのである。

   以上@〜Cの項目から見て、イタリヤの早期終戦が、賢明な事態の対処方法であったことが理解できると思われる。そして、この対処を可能にした要因としては、イタリヤ指導者・外交官の視野の広さ、思慮の深さ、情報収集能力の高さ、が特に重要と見られるのである。なお、指導者交代が一応法的に筋が通る方法で実施され、国民の間にも終戦への希望が顕在化し、マスコミも日本より適切な報導を行っていた点等も、国全体の近代化の成熟度を考える上では、見逃してはならない要点ではないかと思われる。 

◎ 我田引水で恐縮だが、拙著『日本の進路・戦略不在システム・「カイゼン」への道』には、このほか、『負けるが勝ちの戦略例「エジプト・サダトの思考力、合目的性』、『日本海軍大学の図上演習から見た日本軍組織学習の問題点』、等、歴史から学ぶための材料を多数例示しているので、身近の図書館に購入希望を出すなりして、ご高覧いただければ幸甚である。

posted by 合成の誤謬 at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカテゴリー=単独テーマを随時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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