資料14:ロバート議事規則(2008年8/28日の日記から再録)
日本の民主主義教育は、学校教育においても、社会教育においても、基本的な部分で、大きな欠落があると言えるのではないか。この様な観点から、その欠落の一部(教材)を為すと見られるロバート議事規則を取り上げる。
日本の会議とか審議は、国会論争を始めとして、俗に隠れ蓑と言われる政府審議会の識者の議論も同様の傾向にあり、即ち、およそ議論を論点整理し多数決で審議を進めるという、前向きの作業が、欠落することが多いのではないか。議論は、黒か白かといった、神学論争を行い、結論は玉虫色の作文で終始し、結局は、肝腎のことは、何も決まらないということになりがちである。そしてこれでは、失敗の責任を誰もとらないし、失敗が前進のための肥やしになるということもない。日本の大平洋戦争がそうであったし、現在の少子高齢化による日本衰退の奔流の動きについても、このままでは、歴史的因果関係の動きから見て、大平洋戦争の二の舞になる可能性が強いのではないか。
これに対し、民主主義とか、市場主義は、こういう欠陥を避けるために生まれてきた、人類の工夫の一つであった筈なのである。
ロバート議事規則は、自治集団の集団意思を決めるための基礎手続きを標準化したものと見られ、日本市民が民主国家を指向するのであれば、知っておくべき事項と思われる。これは、日本人が日本教から脱皮・進化する上で、役に立つ生活の知恵の一つになるものと思われる。
前置きはそのくらいにして、ロバート議事規則を紹介しよう。
@「議事規則そのものの紹介」もあり得ようが、原本を読んでその実用価値が分かるほど、日本人は会議の参加経験を多くは持たないであろうし、民主主義や社会参加にも慣れ親しんでいるとは思われない。これは筆者の偏見かも知れないが、……。
それで、ここでは原本の紹介は行わない。この議事規則は、日本青年会議所の会議、ライオンズクラブの会議、などで実際に使われている。ライオンズクラブは、世界的・国際的組織であることはご存じの方が多いと思われる。なお、この原本につき当たってみたい方は、例えばインターネットには、高知青年会議所元理事氏の解説が掲載されているので、これを参照されたい。
(http://kanshi.exblog.jp/3405213/)。
Aロバート議事規則について、私がその重要性に「オヤ!」と気に止めるようになったのは、前FRB議長(中央銀行総裁)A.グリーンスパン氏の「私の履歴書」(日本経済新聞記事)にこれが出てきたからである。
私は、グリーンスパン(物価より成長重視傾向)も、元FRB議長P.ボルカー(物価安定重視傾向)も、共に偉大な中央銀行総裁(共に経済調査を重視した共通点有り)と考えるものであるが、両者については、一般には、グリーンスパンは、マエストロと言われ,市場との対話を重視し、変幻自在の対応に特徴があり、一方のボルカーは、物価安定を重視し、景気の一時的停滞を恐れず、物価安定こそが経済の体質を強化し、経済の長期的発展をもたらすとの強い信念を貫いた人と、通常は考えられている。
このように、FRB議長は、ある種のカリスマ性を持つことが大切と考えられる処であるが、グリーンスパンの自伝の中に、同氏が米国大統領からFRB議長に就任を要請され、第1回の会合に出席する前夜には、同氏は、「一生懸命ロバート議事規則を読んでいたわよ」と、同氏が後年マエストロと呼ばれるようになった時期に、彼の若い奥さんから冷やかされたことを自ら書いていたからである。
これから分かることは、ロバート議事規則は、初歩的な規則で、つまり当たり前のこと、基礎的なことが書かれたものではあるが、実は、基本に忠実な、大切なものだという事であろう。
Bロバート議事規則の基本的な部分を紹介すると、発言者は議長が指名し、議長は会議の進行の交通整理を行う。参加者は、一回は必ず賛否とその理由(誰々と同じでも可)を発言する。参加者の一回の発言は5分以内、なるべく簡潔に行う。また、発言回数は、一人最多2回まで(一回は、反対意見=反論とその理由を述べる機会がある)。一方、同じことを同じ理由でくどくど述べることは出来ない(議長が制止する)。議決は、出席者の過半数を超える多数決で行う。
一回多数決で決めたことを、覆して再議決するためには、出席者の3分の2以上の多数による議決を必要とする。以上が規則の骨子である。
このほかに、規則には、当然ながら、定足数とか、議事録の作成、その確認作業等の規定が含まれている。
さて、以上の様な方法で自治の習慣を未成年の時から経験しておくと、論点整理については、ベテランの援助が必要とはなろうが、日本の市民にも、お任せ民主主義から脱却し、ゆくゆくは自立した意見を持つように変わることが期待できるのではないだろうか。即ち、これまでのような結局は何も決められない神学論争と堂々巡りとを回避し、その反面として、妥協点を見つけながら、試行錯誤の過程を経るにしろ、弁証法的発展を経て、前進する方法を身につける様になるのではないのか。また、此がやがては、自分の意見を持ち、また意見を持つために自ら考えることを、習慣として身につけることが出来るようになるのではないだろうか。そうして、この道のりは遠いとしても、失敗した指導者は責任をとる。一方、失敗を恐れず、失敗から学ぶという方法論を、国民全体が学び、将来に明るさを見いだすことの出来ない日本教からは脱却し、自立した市民社会の市民になるための、基礎からの足固めをするという方向性が見えてくるように思われる。ロバート議事規則は、この様になるための、そしてまた、現在の日本には欠落している、良い基礎教材ということが出来るのである。

