2007年05月08日

教育制度の改革[戦後の制度改革]5/9日投稿

( f) A エ)(その2) に続く)

オ) 教育改革・啓蒙問題の補遺
 此まで、安倍政権の教育改革と、筆者が望ましいと考える教育改革とは、内容的にかなりのずれがあることを説明してきた。ただ、戦後以降の此までの教育制度には問題があると見ている点では、両者は一致しているとも言える。
 そして戦後の教育をゆがめた、多分最大の原因の一つに、日教組と文部官僚の不毛の対立、という問題点を挙げることにおいても、おそらく両者の一致があるのではないかと思われる。
 戦後の混乱期に、日本全体がある意味では自信を喪失し、其処での左翼系思想の勢力拡大が、おかしな世相をもたらしたことにについては、やむを得ない面があったろうし、自信喪失状態では、教育担当者がまともな仕事が出来なくても、この時代としては仕方がなかったと言えよう。それにしても、学校の運動会の徒競走で、皆が手をつないで同着でゴールすることが良いとされたり、つい最近まで、日教組の反対で全国統一の学力テストも出来ず、また、これを行おうとの努力もせずに此処まで来てしまったことについては、文科省に怠慢のそしりは、免れないと言えるのではないか。テストによる統計もとれずに、学力向上の手法の研究・進歩など、期待する方に無理があると言えるのではないか。知育偏重の試験の普及も、偏向教育をおそれて、考える内容を排除し、中立的な事実の丸暗記を奨励してきた結果だったように思われる。
 しかし、昭和40年代に、左翼系運動家の中で、内ゲバが起こるようになり、更に時を経て、平成の時代には、ベルリンの壁崩壊=東西冷戦構造の変革が起こることとなっては、日教組主張のおかしな点は、世論を喚起しながらでも、是正への動きがあってしかるべきではなかったかと思われる。社会党、その後の社民党の凋落ぶりから見ても、世論はとっくに左翼系思想の虚偽性・将来性の無さを感得し、従って、此に代わる目標とすべきものを求めていたはずなのであり、國の指導者は此に答えを示すことが望まれていると言えよう。左翼系思想は、言うことは立派には聞こえるのだが、口先だけで実行が伴わないことは、社会主義国の退潮により、論より証拠として、大衆は概ねその本質を見抜いてしまったと言うべきであろう。こうした機会を捉えて、國の指導者としては、こうした風潮を定着させ日本の近代化、健全な市民社会建設への努力があったら良かったのに、と悔やまれるのである。
  つまりは、今頃になっての教育改革は遅すぎであったろうし、だから、安倍改革も筆者の考えとはやや差異があるものの、やらないよりは良い方向に来ていると言って良い。
  左翼系教員については、まだ思想的に白紙状態の若年者を惑わす等の悪影響を与えるようであれば、現在は、家庭も、地元地域も、おそらく、これらの子供達から「よど号」乗っ取りを計画するような人間が育っては困ると考えているはずであるから、学校は、家庭や地域との連携を強化し、教育委員会を動かして、こうした教員を封じ込めるのが良いのであろう。
 また、困るのは左翼系思想ばかりではなく、その実体はどのようなものかは、全体的に把握が出来ているわけではないが、転勤族としての人生を送った経験では、友人の中には、自分の子供の担任教師として、授業を自習として、自分は漫画を読みふけるというひどい公立校の先生に当たり、苦労したという話も聞いているし、また、最近ではテレビで、デイトレーダーとして夢中になり、授業の合間の休憩時間には、急いで教員室に戻り、パソコン操作を休憩時間中フルに行い、また、授業をするために教室に舞い戻る先生もいるという話が出ていた。このような先生の授業は、心ここにあらずといったものになることが目に見えるようであろう。
  公立学校の教員は全てがそうだということは無いのであろうが、いずれにしても、公立学校の教員は、身分保障がある、つまり、ひどい教員を辞めさせることが、事実上出来ないし、辞めさせるのには成功しても、何年も何年もかかって、これでは辞めさせたとはとても言えない状況だ、という話が学校の先生からは聞かれる。
 そうとすれば、安倍内閣の教育改革が懸案としている、教員免許の更新制は、運営には気を遣うべきではあるが、上記のようなとんでもない先生の弊害を無くするためには、導入する方が良いと考えられよう。
  上記では触れなかった問題点としては、平成19年4月30日の日経新聞に、教育再生会議の第1分科会主査白石真澄関西大学教授が、述べられている意見が目に付いた。同教授は、教育分野は「選択」や「コスト」が軽視され、実証データに基づかない議論が多いと指摘されている。
 白石教授の考え方を要約すると、教育論議の不思議な点として次の三点を挙げておられる。第1は、教育においては、利用者(サービス購入者)側の「選択」が重視されないこと(公立校の学区制がその例)。第2は、「競争・市場原理」や「コスト」という言葉に対しアレルギー反応が強いこと。第3は、教育の問題や政策を語るときに実証的データーに基づかない、主観的な意見が述べられ、仮説のぶつかり合いに終始すること。
 これらについて例を挙げると、第1の点については、保護者側に学校選択制賛成が7割弱と高いのに、全国自治体の教育委員会では、「いじめ」などの明確な理由があっても保護者の就学先変更申請を認めないという教育委員会が、過半数を占めるとの実状を挙げている。
 なお、話を中断して申し訳ないが、これは教育委員会の制度に問題があるのでは無かろうか。その制度改革案が表面化しないのは何故なのか、何がそのネックとなっているのか。担当の分科会議事録は公表されるのであろうから、この点を判りやすく会議では説明してもらいたいし、マスコミもこのような肝心の点を見逃さずに伝えて欲しいと思う。
  第2の点については、白石教授は、学校数・学童数のデーターに基づき、学校の統廃合を行えば、教育に関する人件費予算は7.2%削減できるはずだとも述べる。学生達が良い先生から指導を受ける機会を拡大するには、この学校統廃合が効果的だが、これを行おうとする努力が一向に見られないのである。
 第3の主観的意見のぶつかり合いの例としては、「早期の英語教育で日本語がおろそかになる」とか、「学力向上より人間力が大事」といった類の意見開陳が多いことを指す。ヨーロッパの多くの國では、母国語以外に英語などの複数言語を学習しているのにである。なお、筆者としても、安倍内閣が東京市場の国際金融機能向上を成長戦略の目玉の一つに据えるのであれば(本年の改革工程表の案としてマスコミ報道有り)、市場のプレイヤーの他、そのバックアップの事務方用にバイリンガルの人材が多数必要となる点まで、目配りが必要なはずなのに、何故こんな意見が出るのかとの疑問を持つ。ところが、この記事で白石教授は、上記の類の抽象論の応酬で議論は入り口で停止してしまい、あるいは水掛け論となり、妥協的な工夫とか、実務的な対応には踏み込めないという。
 このように見てくると、教育改革も望ましい方向へと進み出すのには、まだまだ時間はかかりそうだと見られる。白石教授の考え方に対しては、文科省官僚などからの抵抗が強いのではないかと推察される。ちなみに、最近出ている「週刊新潮」5月11日号には、同教授に対する嫌がらせのメールが出回っているとか、会議の席でも、白石教授に対する嫌がらせともとれる下品な質問発言をした委員がいたとの話が出ている。また、関連性はやや遠くなるが、改革における苦労話として、竹中平蔵慶応大教授の発言記事(日経新聞:2007.4.27夕刊:人間発見欄)に、「私は官僚は偉いと思っているし、…… ただ、官僚には独特の行動方程式があり …… 省益が絡んだり、権限を侵されると人格が変わる。」という証言も載っている程、強烈なものがあるようである。
 以上のように見てくると、白石教授のご苦労が思いやられる。とは言え、上記の3点を不思議とする白石教授の意見には、筆者は全面的に賛成である。同教授のご活躍を切に期待する次第である。

(以下、カ) は、日誌形式のため、逆順配置となります)

posted by 合成の誤謬 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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